聖霊降臨後第四主日 7月3日「 母がその子を慰めるように 」
母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める イザヤ66:13
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 ガラテヤ5:14~15
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 ルカによる福音書10:3
【説教要旨】 母がその子を慰めるように
時代が変化し、言葉使いも難しくなりました。お子さんが熱を出され休んでいた職員が、教会学校の担当だったので、主任に「お母さんが側にいた方が子どもは安心するから、変わってやってください」というと、「無理をしないで代われますと伝えていますから。ご主人もおられるから大丈夫だと思います」、「いや、お父さんより、お母さんの方が安心出来て、子どもにとってどんなに安心するか」。「それは可笑しいですよ。お父さんも育児に参加しています。失礼な言葉です」。なるほどと思ったのですが、「母がその子を慰めるように」ということを実感感として生きてきた私には頭では主任の言葉はなるほどと肯定し、自分の生き方、考え方を変えなければいけないと反省させられたのです。
政府は男性の育児休暇を取るように推奨している時代であり、東京都も協力に推進するという時代です。「母が」という訳を意味訳して幼稚園流では、「保護者が」となるのかと思いました。社会は大きく変化し、今までの常識は、常識でなくなってきていることに気づき、反省し、とまどう時代を生きていると実感してしまいました。
本日の聖書日課、イザヤ書は、第三イザヤに属し、奴隷であったバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、新しい時代をイスラエル人は歩みだし、神殿再建を始めましたが、再建が進まないこともあり、現実の生活の厳しさに、帰還の喜びも失せ、熱意も失われ、戸惑い、新しい生活に希望がもてなくなり、神から離れようとさえしていました。「57:11 誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか。お前はわたしを心に留めず/心にかけることもしなかった。わたしがとこしえに沈黙していると思って/わたしを畏れないのか。」
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しかし、第三イザヤの流れの中に、神に従うものは幸いを得るという旧約聖書を貫く信仰と共にもう一つ信仰の流れがあります。
65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。
神から離れようとする者にも神は尋ね求められるということです。あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。ルカ15:4」というイエスさまの言葉を思い出します。
63:9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。
現実の生活の厳しさに、帰還の喜びも失せ、熱意も失われ、戸惑い、新しい生活に希望がもてなくなり、また、神から離れようしている人々を裁くのでなく、苦難を常に御自分の苦難としてくださる神が、新しい時代を生きる人々とともにおられるとイザヤは私たちに伝えてくださいます。
私たちも今、新しい時代の変化の中に生きざるを得ないところを生きています。「誰におびえ、誰を恐れて」 とあるように「誰」がはっきりとせずに、日々の大変化の中に汲々とし、流され、希望を持てない私がいる。「お前は欺くのか。お前はわたしを心に留めず/心にかけることもしなかった。わたしがとこしえに沈黙していると思って/わたしを畏れない」と神から叱れ、信仰を失いそうな私がいる。しかし、私たちの苦難を常に御自分の苦難としてくださる方、十字架の主・イエス・キリストがいる。私たちを救い/愛と憐れみをもって私たちを贖い/昔から常に/私たちを負い、私たちを担ってくださったイエス・キリストがおられます。大変化の現実を前にして、「キリストの十字架」は無力です。常識的にいえば力による自由を勝ち得ることこそすばらしいと感じ、思います。しかし、イエスさまはここに立たれませんでした。十字架を通して示された神の愛に立たれました。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 ガラテヤ5:14~15
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とパウロは言います。世がどうこうではない、そこで十字架、神の愛によって世の力は打ち負かされ、私は神の愛によって、はりつけ-繋がれた、結ばれた-にされた。だから、世に対して、正しく対処していかなければならい、どうしなければいけないとかということが問題ではなく、私たちを救い/愛と憐れみをもって私たちを贖い/昔から常に/私たちを負い、私たちを担ってくださったイエス・キリスト十字架のここにこそ新しい創造が起きるのだとパウロは私たちに語りかけてくるのです。
イエスさまは72人を派遣するにあたって、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言われます。今、ここの会堂から私たちを大変化している世に送り出されます。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものです。私たちはたちまち世の力に食われていく存在です。しかし、世の力は十字架に張り付けされ、十字架、神の愛が私たちに結ばれている。わたしはここにいる、ここにいると言った神が、イエス・キリストがいます。「行きなさい。」というイエスさまの言葉に励まされ、出ていきましょう。そして日々、神によって、世の厳しい現実とぶつかりながらも、信仰を生きるものとして新しく創造されていく出来事が起きることがあるという希望をもって、大変化の時代を歩んでいきましょう。
母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める
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牧師室の小窓からのぞいてみると
新型コロナウィルス感染、熱中症が増えてきた。そんな中で、教育機関は困っている。マスクの励行は、熱中症の危険が増す。先日、卒園生から「今日から学校に行く時、マスクしなくてもよくなったんだ」と聞いた。学校も苦慮し、工夫をしているんだと思った。
ウクライナ侵略、円安という社会状況に影響されて、給食の材料費も、光熱費も上がっている。それをどう対応するか頭が痛い。 コロナ感染で多くの補助金が出され、これを補填するために労働保険料が上がり、23年度は二倍になりますと社労士に言われた。
地球温暖化は、気象を変化させ、酷暑を呼び、熱中症対策、節電を行わなければならない。 教育機関を運営していくにも社会の大きな影響を受けている。政治、経済を抜きにして考えられないことをひしひしと感じている。
園長・瞑想?迷走記
モンシロチョウが育って、青空に飛んでいった。実は二十日大根を年少さんが種から育て、緑の葉っぱが出たころに一夜にしてその葉っぱが食われてしまった。見ると犯人は幼虫。
そういえばモンシロチョウが飛んでいた。その蝶が卵を産み、ふ化したんだと先生が気づく。調べてみるとモンシロチョウの幼虫に間違いないという。でも、こんなに葉が食べられてしまうと大根ができません。計画を変えてみましょうと提案。ではモンシロチョウへと育ててみませんか。幼虫を捕まえて虫かごに。無農薬のキャベツは食べるのだが他は食べないのが面白い。食べ分けるの?上へ上と幼虫は上り、蛹になっていく。みんな子どもたちは観察する。幼虫を持ち帰って育てる子どもたちもいた。
今日、蝶になって飛んでいったよと嬉しそうに報告してくれる親子もいた。計画通りはいかなかったが、
モンシロチョウの成長を観察できた。いつも計画通りいくものではありませんが、そこには思いもしなかった楽しいことも隠されていた。二十日大根は?その後、回復し、立派な大根が出来て、みんなで食べるまで成長した。
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日毎の糧
聖書:主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 、 בわたしの神よ、あなたに依り頼みます。 詩編25:1~2
ルターの言葉から
信仰は大いなるものである。それは詩編が完全に示している。私の信仰は、ぐらぐらして不安定であることを知っている。だが、教会と信仰はわたしたちのものとにあり、多くのことを行う。主の祈りと信仰は私たちのもとにあり、多くのことを行う。主の祈りと信仰はサタンに対する強い盾である。私のレニヒェンとヘンスヒェン(ルターの子たち)が私とすべてのキリスト者のために祈ってくれている。 『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館
信頼
旧約聖書は、イスラエルの長い歴史を通して、信仰者はどう生きていくかという事を教えてくれている。25編は「本編が主に従う道に関する教訓詩であることが見えてくる」(新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ 太田道子 日本基督教団出版局)と言っているように、教育的詩編である。
神よ、イスラエルを/すべての苦難から贖ってください。 25:22 詩編の結びである。イスラエル、信仰者、主に従う道を歩む者は、苦難がともなうということである。「全詩篇は、それぞれの詩句が試練、苦難、禍しかなく、試練に満ちた書である(ルターの卓上語録)」しかし、苦難は黄金のわざを学ぶ時、場である。それは、「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 、 בわたしの神よ、あなたに依り頼みます。」という道へ導き出されると詩編は約束しています。今、苦難にある方、魂を神に向けましょう。神へ信頼しましょう。イスラエルの民は苦難を味わい、越えてきました。私たちもその民です。
祈り:神に従う者として、神を仰ぎ望み、信頼して行けますように。
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大森通信
「大森ルーテル教会70年史」25 宣教100年(1993年) 日本に宣教100年の記念礼拝をして、29年目である。 2年後、一つの時代の変化を告げるように、「阪神淡路大震災」、「地下鉄サリン事件」、「インターネットの急速な発展」、4年後、「地球温暖化防止京都議定書」があった。6年後、EUがユーロを導入して20世紀を終える。確実に時代が変化し、動き出し始めたが、私たちは、来る21世紀に起きてくることを予想し、応えてきたかというと心もとない。 21世紀に入り、イラク同時多発テロ、米国イラク侵略、アナログテレビから地デジへ、リーマンショックで経済の混乱、政治、経済のグローバル化、東日本大震災、インターネット技術の発展、地球温暖化の深刻さ、中国の抬頭による世界の構図の変化、そして、新型コロナウィルス感染による世界的パンデミック、ロシアのウクライナ侵略、日本は、平成から、そして令和と変わっていく。わずか、30年の間に世界に想像しがたいことが起きた。これを終末ととらえるか、新しい世界の創造が始まったと捉えるかというところに私たちは立たされている。 100年の記念礼拝に次のように私たちは決意している。「・・・決意します。主に生かされている喜びと、そのことを分かち合うことによってさらに大きな喜びにあずかれるということを、そして、主にこの身をお捧げし、主の道を歩んで行くことを。アーメン。」 たとえ時代が大きく変化し、明日が終わりであっても、「わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。(キリスト者の自由)」がルーテル教会が100年で確認したことであり、今もここを宣教としたい。
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(大森日記)日)教会学校、通常礼拝、幼稚園運営委員会、神学生と週報発送の準備、夕礼拝といつものように時が流れる。月)梅雨明けで酷暑。水撒きで今週は終わりそうだ。火)詩編の準備。ヘブル語のアルファベット苦闘。水)暑い。病気の方々を思い祈る。木)70年の記念誌の送付完了。金)子どもとともに礼拝。職員会議。暑さは堪える。土)主日の準備。